2025年の大河ドラマ「べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~」は、江戸中期の出版業界を塗り替えた敏腕プロデューサー蔦屋重三郎の生涯を描いた物語です。
主演の蔦屋重三郎役は横浜流星さんです。
蔦屋重三郎は浅草に移転後の「新吉原」遊郭で生まれ育ち、名を成した男です。
ここでは吉原遊郭で働く遊女の人数や、吉原遊廓で働く遊女のランクなどについて調べていきましょう。
大都市江戸と新吉原で働く遊女たち
徳川家康が関東に入府した8月1日は、年始と並んで徳川幕府にとっても重要な式日とされ、大名・旗本などが総登城しました。御台所や大奥で働く女中たちも白の帷子を着るなどしてお祝いをしましたが、この日は花街の吉原でも、遊女が白無垢の衣装を着て祝ったと言われています。
新吉原は明暦の大火で浅草に移転
江戸幕府から公に認められた「吉原遊廓」は、元和3年(1617年)に作られ、1657(明暦3)年に「明暦の大火」が起こり、それがきっかけで日本橋から、浅草の浅草寺の裏手への移転が行われることになります。
振袖火事とも呼ばれた明暦の大火は、10万人を超える死者が出たと言われるほどの大火事でした。
この火事がきっかけで、江戸の町は大規模な改造が行われ、その復興に日本各地から人々が仕事を求めて江戸へ集まります。
日本橋から浅草へ移転した吉原は、一大遊興地として成長していきました。
移転する前の吉原遊廓を「元吉原」とよび、浅草に移転した後の吉原を「新吉原」と呼んでいました。
蔦屋重三郎は、新吉原になってから生まれていますね。
吉原遊郭の遊女の人数は?
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隅田川にかかる橋を中心に、江戸の町はさらに大都市へと成長していき、江戸は好景気に沸いていました。
一日千両と呼ばれ、江戸の町とともに大きく肥大してゆく新吉原は、どのくらいの規模だったのでしょうか。
そこで働く遊女の数は、享保年間(1716年〜1736年)から天明年間(1781年〜1789年)までは2500人くらい、寛政3年(1791年)ごろには4000〜5000人、弘化3年(1846年)には7000人ほどだったそうです。そしてそこで働く遊女以外の従業員は5000人ほどだったとされています。
出典:図説江戸5 江戸庶民の娯楽より
吉原で働く遊女が7,000人!?
遊女以外の従業員も5000人いて、一大企業だね!
吉原遊郭の遊女のランク
吉原遊郭には、270の妓楼があり、多いときで7,000人の遊女が働いていたということなのですが、吉原ができたばかりの頃は遊女のランクは「太夫・格子・端」の3つだったようです。
1643年(寛永20年)に刊行された吉原の詳細について書かれた「あづま物語」では、吉原の遊女の人数が記されていいます。
格子女郎…31人
端女郎…881人
『あづま物語』は吉原の案内書としての『吉原細見』の起こりと言われていますが、全ての遊女の名前や人数、年齢が記されていました。
太夫も格子も、15歳から19歳くらいの少女達です。
新吉原となり吉原以外の買春が禁じられると、風呂屋で春をひさぐ「湯女(ゆな)」や、茶屋で客をとる私娼が禁止され吉原に吸収されるなど、時代とともに人数や呼び名も変わりました。
また、江戸の吉原と、大阪の新町遊郭や京都の島原遊郭でも呼び名が違ったようです。
享保20年(1735)ごろの吉原細見による遊女ランク
蔦屋重三郎が版元となり出版した「吉原細見」は地図、茶屋のリストや遊女の名前やランクづけと揚代が明記されているベストセラーでした。
享保20年(1735)の『吉原細見』にも遊女の階級と料金が掲載されています。
1.太夫(たゆう)
2.格子(こうし)
3.散茶(さんちゃ)
4.埋め茶(うめちゃ)
5.五寸局(ごすんつぼね)
6.三寸局(ごすんつぼね)
7.並局(なみ)
8.次(つぎ)
吉原から姿を消した太夫
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最高クラスの遊女は「太夫」で幼い頃から英才教育を受けた、教養も人格も芸事にも優れた別格の存在の遊女で、一部の着物以外、化粧品や生活費全般を自費でまかない、遊女見習いの禿や新造にかかる費用も出していました。
太夫は見世には出ず、武家などの上流階級を馴染み客としており、太夫と馴染みになるためには3回以上、芸者や太鼓持ちなどが同席する宴席を設けなくてはならず、莫大な揚代がかかりました。
入れ替わる遊女のランク
宝暦年間(1751~64)になると、それまで吉原に通っていたような上流武士が財政難のために、足を運ばなくなります。
変わって成り上がりの商人が上客という時代になり、遊女の揚代にそこまでの費用をかけなくなっていったため、遊女の教育にもそこまでお金がかけられなくなります。
武士は見栄っ張りだったと言いますね。
「武士は食わねど高楊枝」とは貧しくても気品高く生きよという意味だったんだよ。
お金にシビアな商人には通用しなかったんだね。
やがて新吉原から太夫や格子は姿を消してしまい、代わりにもっと親しみやすい地位の「散茶」が最上位の遊女となります。
「散茶」は「呼出(よびだし)」、「昼三(ちゅうさん)」「附廻(つけまわし)」と三つの格式に別れていったとも言われています。
最高級が「呼出」と呼ばれる昼三で、張見世に出ることはせず、客に呼ばれると茶屋へ出向き、新造や禿を連れて花魁道中をすることが許されていました。
のちにこの散茶の呼び名として、花魁という言葉があてられたと言われています。
遊女見習いの禿と新造
ほとんどの遊女は貧困のため、子供のうちから口減らしのために女衒(ぜげん)に連れてこられたか、売られてきた幼女でした。
幼いうちに連れてこられた少女は、美しく賢ければ高い教育を受けて将来は花魁になることができましたが、そうではなく、10歳を過ぎてから吉原に来た少女は、すでに時遅しとばかりに、15歳を過ぎた頃には客をとる遊女になっていたようです。
禿(かむろ)…
5歳以上10歳以下の幼女で、最初は手伝いや遊女の雑用をしながら礼儀作法を覚え、姐女郎について身の回りの世話をする。器量が良く、見込みがある禿は引き込み禿になる。
引き込み禿…
将来太夫になると見込まれて、楼主から直接英才教育される遊女見習い。
三味線、踊り、唄や書などの読み書き、花魁の下で接客の方法なども学ぶ。
振袖新造…
13~14歳になると、太夫になると見込まれた引き込み禿が振袖新造になる。
しぐさや客とのやりとりを覚えるために太夫の近くについている遊女見習いで花魁道中にも付き添った。
17歳になると初体験の儀式の「水揚げ」をして、客をとる遊女となる。
留袖新造…
10歳以上になってから吉原に入り、教育期間が十分ではなかった遊女見習い。
15歳から客をとる。
番頭新造…
28歳になり、年季が明けても結婚せず行き場のなかった遊女が番頭新造になり、高級遊女のマネージメントに回る。
のちに遣手になる女性もいた。
吉原の遊女と格付け
吉原の遊女の種類が随分と細かく別れていて、時代によってトップ遊女のあり方も違ったようです。
子供のうちに売られてきて、吉原でお茶、お花、踊り、三味線、書道に和歌や漢詩も身につけていた高級遊女とは本当はどんな女性たちだったのか、思いはつきません。
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