吉原だけじゃない蔦重も通った蔭間茶屋!?江戸の男色は常識ってほんと?

蔦屋重三郎
出典:イラストAC
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吉原については沢山の書物を読むことができますが、江戸のBL・蔭間茶屋についてはあまり見かけませんね。
戦国時代の織田信長と森蘭丸などは有名ですが、日本の男色文化というのは古来より、江戸時代にも連綿と続いていたようです。
蔦屋重三郎の大河ドラマには出てこなそうな話ですね。

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男色の開祖は弘法大師?

出典:https://rideandseek.com/kobo-daishi-2/

蔭間の開祖は弘法大師(774〜835年)と言われています。

たま
たま

歴史でも勉強した空海和尚ですね。

じっさいには女色を禁じられた僧侶たちの間ではずっと昔から男色が行われていて、平安時代にそれを伝えたのは弘法大師・空海だというのは江戸時代の認識だとか。

男色は深い山の修行場の寺院で、僧侶たちの間で密かに行われていました。

〜弘法大師・空海が留学先の唐へ真言密教を学びに行ったころ、唐では衆道がおおいに流行っていた。
空海は学問の間にこの道に入り、帰国してからは「高野六十那智八十」の教を立て、この道を広めた。
『風俗七遊談(宝暦6ー1754)』より

「高野六十那智八十」とは、男色の世界では高野山や那智山で修行する僧侶たちは、60歳や80歳の高齢になっても、まだ男色に性を出す、色気があるという意味です。

また、『弘法大師 一巻之書』(慶長3ー1598)にも「衆道とはお互いに思いそめて、親しみ深く兄弟の役をなせしこと、他の書にも見えたり。その昔、弘法大師の初め給うことなれば〜」

など、男色を説明するのに弘法大師を登場させています。

男色はまず僧侶の世界からはじまり、それが貴族の間にも広まりました。
仏教では僧侶たちは皇族や貴族のために加持祈祷をし、その見返りに貴族たちは僧院へ寄付をするなど結びつきが強く、男色の文化も伝わっていったようです。

戦国時代に入ると、武将たちが貴族の流行をまねて、身近に見目うるわしい小姓をおくようになります。

小姓は自分の尊敬する殿様から寵愛を受けて、主従関係はいよいよ強く、強固なものになっていきました。
自分の命を投げ打ってでも、殿の命を守るという強い気持ちが育っていったのですね。

しまちゃん
しまちゃん

織田信長と森蘭丸みたいな?

たま
たま

生きるか死ぬかの時に、盛り上がる主従関係。。

戦国時代の戦の勝敗を知るには、男色のことを知らなければわからないという有識者もいるようです!

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若衆歌舞伎と蔭間は16歳がピーク?

出典:https://archive.library.metro.tokyo.lg.jp/花鳥風月の内 建前若衆

江戸時代の蔭間茶屋で働いていた男子は、主に歌舞伎役者の見習いの男の子でした。
修行中で、舞台に上がる前の10〜17歳くらいの年齢の中性的な魅力を持つ少年たちが蔭間としての花形で、その後男らしく成長して20歳ごろになると、男性客ではなく女性客を取るようになっていきました。
16歳が若衆の春というように、蔭間のピークは大変短いものだったようです。

田舎から出てきた男子を男娼にするには、幼少から育てあげなくてはなりません。そのための指導書などもありました。

見目よく要望が美しくても、そのままでは客の気持ちを惹きつけることはできません。
幼少からざくろの皮の粉末で肌を磨き、10〜12歳の頃に鼻が低ければ寝るときに板で鼻を挟み、これを根気よく続ければ鼻が高くなると書かれています。

歌を詠む素養や、歩き方や客とのやりとりの仕草、食事のマナーに関する決め事などもたくさんありました。

若衆たる人は、臭いのあるものは食べない、焼き魚、サザエの壺入りなどの汁物を飲むのもよくない。
とろろ汁、納豆汁、奈良茶、蕎麦切りの類は若衆のそばにても生男は遠慮なく食べるなり。
体臭が発する元になるような食物は、一切ご法度で、ガス源となる芋類は一切食べない。
『男色十寸鏡』(貞亨4-1687年)

やはり主な客は僧侶だったようですが、女性客もいたそうです。
女性客は夫を亡くした未亡人と、男子禁制の大奥で働く御殿女中でした。
20歳を過ぎて、体が大きく逞しく育った蔭間は女性相手の男娼になったようです。

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蔦重も吉原と蔭間茶屋をハシゴ!?

出典:東京都立図書館

ところで江戸のメディア王・蔦屋重三郎も、蔭間茶屋に行っていたようです。
文化年間(1804)の狂歌にこんな歌が残っています。
作者は宿屋飯盛(やどやのめしもり・1753〜1830年)で、著名な国学者・狂歌師で文化人の石川雅望(いしかわ まさもち)の筆名です。

唐丸にいざなわれて、蔭間をもとめにゆきて、床に入りけるに、この若衆、にはかに痔の痛み耐えがたしとて、うめきければ
さしあたりなんとせん湯のはひり口釜破損につき今日休み
宿屋飯盛

蔦重が呼んだ文化人が、色々な物書きと接待やら、打ち合わせやらを兼ねて吉原に集まることも多々ありました。
出版界ではすでに有名になっていた蔦屋はこの日、宿屋飯盛と蔭間茶屋で遊ぼうということになったのですね。

たま
たま

どっちかじゃないの!?

しまちゃん
しまちゃん

昔の日本では男性はほぼバイセクシャルだったようですよ。

狂歌の内容は、床入りの寸前に若衆姿の蔭間が急に痔の痛みに苦しんだので、湯屋に出かけると「釜破損」につき今日休みと札が貼ってあったというものだったそうです。

当時の文化人たちは、吉原の遊女だけではなく、蔭間を買うのもたしなみだったのですねえ。。
参考:江戸の色道/渡辺信一郎 著

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吉原だけじゃない蔦重も通った蔭間茶屋!?江戸の男色は常識ってほんと?

日本では古来から男色は遊女と並び、行われてきたようですが、吉原と違って文献が堂々とおもてに出ることは少ないですね。
明治に入るまでの江戸の価値観と現在では、同じ日本とは思えない全く別の世界のようです。

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