蔦屋が手がけた吉原細見とは?平賀源内が執筆の理由も!べらぼう【2025大河】

蔦屋重三郎
出典:イラストAC
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2025年のNHK大河ドラマ「べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺~」は、江戸のメディア王・蔦屋重三郎(つたやじゅうざぶろう)の生涯を描いた物語です。

蔦屋重三郎は「吉原を知り尽くしていた男」とも言われていますが、いったいどのように江戸の出版界で次々とヒット作を送り出すまでになったのでしょうか?
今回は蔦重が手がけた「吉原細見」や執筆をした平賀源内との関係などについて見ていきます。

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蔦屋重三郎は吉原生まれの吉原育ち

吉原遊廓には「引き手茶屋」と呼ばれる、客の予約をとったり芸者を呼んで宴会をしたり、そのあとで客が遊女のところへ行く手はずを整えるなどの重要な仕事がありました。

蔦屋重三郎を引き取った喜多川氏は、その「引き手茶屋」を経営していました。

蔦屋重三郎の生い立ち
1750年(寛延3年)に吉原で生まれる
父は尾張から江戸に出ていて遊郭づとめをしていた丸山重助。
母は江戸出身の広瀬津与。
ふたりは吉原で所帯を持ちますが、蔦重が7歳の時に離婚したため、吉原で「尾張屋」という引き手茶屋を営んでいた、叔父の喜多川氏の養子となる。
蔦屋重三郎は通称で、本名は「喜多川珂理」(きたがわからまる)という。

吉原はイベント会場で観光地でもあった

吉原の妓楼はお歯黒どぶに囲われて、大小合わせると約200軒あったと言われます。
男は出入りは自由でしたが、女は入るのは自由でも、切手と呼ばれる通行証がないと出ることはできませんでした。
遊女の足抜き(逃亡)を防ぐためです。

そのように吉原は大変シビアな環境の売春街ですが、江戸随一の観光地でもあり、季節ごとのイベントには大掛かりな仕掛けを施され、男性も女性も吉原の見物を楽しみにしていたのです。

のちの耕書堂 出典:東京都立図書館

そんな吉原に出入りする業者は幅広く、呉服屋・髪結い・植木屋・生花業・化粧品業者・香木屋・質屋・始末屋・女衒などなど…。その中には貸本屋もありました。

吉原で生まれ育った蔦重は、あらゆる情報に精通しており、全国から集められた遊女たちは、貸本業を営む蔦重の持って来てくれる貸本を楽しみにしていたに違いありません。

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吉原遊女を味方につけた蔦重の「吉原細見」とは

出典:東京都立図書館

1770年ごろ、吉原の大門を入る手前の五十間道のあたりに、二十歳の蔦屋重三郎が本屋を出しました。独立したのです。

1773年には鱗形屋孫兵衛(うろこがたや・まごべえ)が出版していた「吉原細見」の販売を任され、翌年には再編集と小売を任され、吉原細見『細見嗚呼御江戸(さいけんああおえど)』を販売します。

当時「細見」の販売は鱗形屋が独占していていましたが、遊女の出入りの激しさに更新が追いつかず、内容が古いままで販売していたため信用されなくなっていました。

また、この頃はそれまで吉原の得意先だった大名や商家の羽振りが、以前ほどではなくなり、手頃な値段で遊べる岡場所が増えるなど、吉原の景気は悪くなる一方でした。

そこで、鱗形屋は「吉原細見」の情報を改め、最新版にするべく、蔦屋重三郎に編集長を任せたのです。

「吉原細見」は絵図で遊女屋にいる遊女の名前、ランク、値段、茶屋などのリアルな情報が掲載されているもので、やはり吉原に行くなら必要なものでした。
蔦重は見世を一軒一軒まわり、事細かく情報を更新していきました。
明確な料金を示すことで、吉原の敷居を低くしてお客の足が向きやすいようにしたのです。

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男色家の平賀源内が「吉原細見」執筆に驚き

細見嗚呼お江戸 出典:国書データベース

この「細見嗚呼御江戸(さいけんああおえど)」に平賀源内が、浄瑠璃の時の筆名・福内鬼外(ふくちきがい)で序文を寄稿しています。

当時すでに多方面で活躍し、著名人だった平賀源内が、『吉原細見』の序文を書いたということは大変話題になりました。

それというのも、平賀源内は蔭間茶屋版の細見とも言う『江戸男色細見』を書いており、さらに風来山人(ふうらいさんじん)と言う名義で男色小説『根南志倶佐(ねなしぐさ)』を出版しています。
江戸の人々は平賀源内が男色家だと知っていたのです。

パコさん
パコさん

当時の日本の男性はほぼバイセクシュアルだったと言われています。

生粋の男色家である、あの平賀源内が吉原遊廓の『細見』の文章を書いている!

そう思った江戸の町人たちは興味津々だったに違いありません。

平賀源内が執筆した『細見嗚呼御江戸(さいけんああおえど)』には、「女衒、女を見るに法あり」で始まる序文に女衒が売られて来た少女に値段をつける様子が描写されています。

たま
たま

これを読んで吉原に客足が戻ったということなのですが。。

現代の日本人の感覚からすると少女の人身売買のひどい話としか感じないのですが、江戸時代中期ってまだ人権という概念もなく、今の日本の価値観とは全く違う世界の話なのですね。

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蔦屋が手がけた吉原細見とは?平賀源内が執筆の理由も!

江戸時代に、本屋という生業を情報戦略として使った蔦屋重三郎。
平賀源内は天才発明家、医者、文筆家としてすでに名前を馳せていましたが、才能のあるもの同士繋がった瞬間だったのですね。
改めて、吉原を通して江戸時代とはどんな時代だったのかと探りたくなりました。

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