2025年の大河ドラマ「べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~」は、江戸中期の出版業界を塗り替えた敏腕プロデューサー蔦屋重三郎の生涯を描いた物語です。
主演の蔦屋重三郎役は横浜流星さんです。
蔦屋重三郎は吉原遊郭で生まれ育ち、名を成した男です。
ここでは日本橋に作られた吉原遊郭が、なぜ浅草に移転したのか?
江戸の大火事、「明暦の大火」とともに見ていきましょう。
江戸に吉原遊郭ができたのはなぜ?
蔦屋重三郎は1750年、吉原が浅草に移転した後の江戸「新吉原」の生まれです。
では吉原遊郭がいつどこでできたのかを見てみましょう。
徳川家康が幕府を江戸に開いた1603年(慶長8年)、まだ湿地帯だった土地を埋め立てて、新しく街を作るための建設ラッシュに沸く江戸には地方からやってくる職人であふれていました。
そのため、当時の江戸の町の人口は男ばかりだったそうです。
当時の江戸の男女比率は7対3くらいだったとかいう話もありますね。
人口が増えるに従って、日本全国から遊女屋が集まってきます。
遊女屋は職人の男たちみならず、参勤交代で江戸に出てきた大名に使える単身赴任の侍などで大変繁盛したそうです。
するとその噂が広がり、上方からも江戸に遊女が流入するなど遊女屋がどんどん増えてしまい、街は風紀が乱れ混沌としていきました。
梅毒などの病気も蔓延していったそうです。。
そこで庄司甚右衛門という人物が役所に願い出て、現在の日本橋人形町に、遊女屋を一箇所に集めるという許可をもらいます。
そして1617年(元和3年)、現在の日本橋人形町の「吉原遊郭」を作ったのでした。
幕府公認の遊郭ということで、ちゃんと税金を収めていたのでビジネスとして認められていたのですね。
吉原遊郭と明暦の大火
幕府公認の吉原遊郭は、堀にぐるりと囲まれた畑の中に人工的に作られた街です。
その中に女郎屋や傾城屋と呼ばれていた遊女屋(妓楼)がありました。
最初に日本橋にできた「元吉原」は24軒ほどの遊女屋で構成されていました。
ただ、当然「吉原遊郭」にくるお客はお金持ちの大名や、超富豪の商人などに限られていて、昼間は労働する職人さんや貧乏侍たちには縁がない場所だったようです。
元吉原では遊女の服装は地味にすべし、とか夜間の営業はダメとか規制があったのね。
明暦の大火をきっかけに日本橋の「元吉原」が浅草の「新吉原」へ移転
江戸の町人人口は、寛永 11 年(1634)に約 15 万人、明暦3年(1657)に約 28 万人、元禄6年(1693)に約 35 万人、享保6年(1721)には約 50 万人と推定されている。これに武家人口 50 万 人を加えると、江戸の総人口は約 100 万人となる。国内はもちろん、当時のヨーロッパの諸都市と 他べても、ずば抜けた巨大都市だった。
出典:https://www.bousai.go.jp/kohou/oshirase/h15/pdf/2-7.pdf
江戸の町が出来上がって人口が増えるとともに武家大名のお屋敷、お金持ちの商人などが住む街も住み分けされ、確定されていきます。
屋敷を持たない旗本も多くいたため、赤坂や芝などお武家用の宅地開発もされていったのです。
そうすると遊郭の数も増え、日本橋という町の中心地に遊郭があるのは色々な意味でよろしくないということになっていきます。
そこで吉原遊廓は、浅草の浅草寺の裏手に移転することになります。
吉原遊廓の移転は江戸の都市計画の一部だったんだね。
この頃10万人を超える死者が出たと言われる1657(明暦3)年の「明暦の大火」が起こり、江戸はそれまで整えてきた町の約6割を失ってしまいます。
明暦の大火は振袖火事とも呼ばれているね。
【呼称】振袖火事・丸山火事・丁酉火事・明暦の大火
本郷丸山本妙寺から出火、翌日は麹町五丁目からも出火、
焼失町数500余、死者10万人を越えるという説あり。
江戸城をはじめ多くの武家屋敷・町屋を焼く。
江戸史上最大の大火。
出典:https://www.bousai.go.jp/kohou/oshirase/h15/pdf/2-7.pdf
この年は、とても乾燥した日が続いて、他にも火災がたくさん起きていました。明暦の大火が起きた当日は、北西の風がいちだんと強く吹いていたそうです。
大名屋敷、旗本屋敷が一斉に燃え、それまで豪華で精密な彫刻や金箔で飾られた大名屋敷なども、明暦の大火で焼けてしまい、火事のあとは白木づくりの簡素なものに変わったんだそうです。
江戸城も被害は甚大で、本丸や二の丸も全焼、西の丸はかろうじて焼け残りますが、天守閣も焼け落ち、その後も再建されませんでした。
うわああ〜。もったいない〜!!
この頃はまだ消化制度そのものが整備されておらず、ほとんど火消しは行われていませんでした。風が収まるまで火事は続き、建物自体も燃えやすかったので、街を丸ごと飲み込んでいったようです。
防災都市・江戸の復興と好景気
「江戸っ子にたいへん人気のあった町火消の絵です。江戸時代中期に、大岡忠相(おおおかただすけ)により組織された町火消の人足は、約1万人といわれています。
普段は鳶として働き、火事が起きたら現場へ向かい消火に邁進する、町火消の勇敢で威勢の良い振る舞いは、江戸っ子の「粋」の極みでした。この絵は、当時の人気歌舞伎役者を町火消に見立てたものです。
出典:東京都立図書館
この火事がきっかけで、火災後の大規模な都市計画で道を拡張したり、火除け地をたくさん作る、大名屋敷も移すなど江戸は防災都市へと変貌し、吉原移転も一気に進みます。
そして復興の中、日本各地から職人などの労働者が江戸に集まり活気を増していきます。
大火事をきっかけに街ごと作り変えたんだね!
明暦の大火をきっかけに、木版による江戸の出版が盛んになったんだ。
復興の好景気の活気に沸く江戸に、それまで上方が中心だった出版文化も江戸に移動してきます。
働く庶民が大勢いる江戸で「仮名草子」と呼ばれる大衆向けの冊子が、木版の印刷技術を使って小さな版元から出版されるようになったのはこの頃からです。
この頃から木版による出版物を庶民も楽しめるようになっていくんだね。
隅田川にかかる橋を中心に、江戸のまちはさらに大都市へと成長していき、江戸は好景気に沸いていました。
「新吉原」には、約270軒の妓楼があったと言われています。
吉原遊郭の移転と明暦の大火
明暦の大火は「振袖火事」とも呼ばれ、少女が美しいお坊さんに恋をしたことがきっかけという逸話があります。また、人口が増えてきた江戸の町を新しく作り直すために幕府が放火した、侍が幕府への報復に放火した、など様々なうわさがありますが、真実はだれにもわからないのですね。
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