吉原の総人口が一万弱だった頃、吉原で働く遊女たちは人数の増減はあったものの、俗に「遊女三千」と言われるほどでした。当然遊女以外にも男の芸人・幇間や芸者、奉公人や商人や職人など、妓楼で働く人はたくさんいました。
ここでは遊女の世話をする女性の遣手や、男性の奉公人などについて見ていきましょう。
1657(明暦3)年の「明暦の大火」の後、火災後の大規模な都市計画と復興の中、吉原は浅草に移転しました。
「新吉原」には、約270軒の妓楼があったと言われています。
そこには仕事はたくさんあり、遊女以外にも働いている人が大勢いました。
吉原で働く人々
吉原で働く人々には、遊女を美しく品格のある女性に仕立て上げるための教育者・遣り手・手代・呉服屋・髪結い・芸者衆・幇間・植木屋・生花業・化粧品業者・香木屋・質屋・始末屋・女衒などなど…。その中には貸本屋などもありました。
また、「引き手茶屋」と呼ばれる仕事があり、客の予約をとったり芸者を呼んで宴会をしたり、そのあとで客が遊女のところへ行く手はずを整えるなどの重要な仕事でした。
蔦屋重三郎を引き取った喜多川氏は、その「引き手茶屋」を経営していました。
妓楼で「忘八」と呼ばれた経営者たち
妓楼の経営者たちは、親に売られてきた女郎たちの血を搾り取る職業と蔑まれ、軽蔑の念を込めて「忘八」と呼ばれていました。
血も涙も無い人非人と時代劇で呼ばれる人たちですね。
「仁・義・礼・智・忠・信・孝・悌(てい)」は儒教の八つの徳目。
人の心を忘れた人たちのことを指しています。
また、金銭を湯水のように使い遊郭に通う男たちのことも言いあらわしていて、八つの道徳を忘れるほどの楽しい場所という意味もあったとか。
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吉原の中でも大店では遊女や奉公人を100人ほども抱え、多くの客が出入りする妓楼。
頻繁に起こる家事の対応、女衒との交渉、お上への対応
切り盛りする経営者は相当の切れ者で、冷酷な人物でなければやっていけなかったことでしょう。
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「遣手(やりて)」は元女郎の憎まれ婆
若い遊女の背後にひかえ、細かく指図する中年女を「遣手」と呼ぶようになりました。
遊女の世話をする「遣手」は妓楼に一人ずついて、二階の遣り手部屋で遊女や客の動きに目配りをして、廓の中を切り盛りしていました。
遣り手婆の語源だね。
禿のしつけや新造、遊女の教育、働きの悪い遊女を叱り飛ばし、足抜け(脱走)した遊女にきつく残忍な拷問をするのも「遣手」の仕事でした。
足抜けは管理が行き届いていない「妓楼の恥」とされ、処罰がとても厳しかったのです。
このため遣手は遊女たちから恐れられていました。
楼主の見立てで、年季が開けた後の遊女が遣手になることが多かったようです。
年季が開けた後も、結婚せず、独立もせず、吉原に残ることを選んだ女たち。
吉原のことなら、裏も表も知り尽くした熟練の女の人生とはどんなものだったのでしょうか。
若い衆(わかいし)・若い者
吉原の妓楼で、接客業に従事する男の奉公人の呼び名を「若い衆」や「若い者」と呼びました。
客と遊女の間を取り持ち、妓楼の入り口の台に座って、見張りや呼び込みをするのも彼らの役目です。
遊女が来ない場合に怒った客をなだめたり、客の履物を預かって下駄箱にしまう、遊女の機嫌を取る、花魁道中の際に先頭を歩く、傘を差す傘さしの役なども若い衆の仕事です。
回しかたとも呼ばれ、複数の客の間に遊女をうまく回すなど、機転が利くものにしか務まらない役割でした。
また「若い衆」とはいえ、年齢は関係なかったようです。
幇間(ほうかん)・芸者
幇間は妓楼や引き手茶屋の宴席によばれ、小噺をしたり芸を見せてお客や主人の機嫌をとって間をつなぎ、芸者を手助けをするのが仕事でした。
ご祝儀をもらって生活する男芸者のことで、太鼓持ちとも呼ばれます。
たいていは吉原の中の裏長屋に住んで、見番に登録しているので宴席があると声がかります。
芸者も同じように裏長屋に住んで、鍵盤に登録していました。
明和四年(1767年)から始まった行事「吉原俄」で、踊り子が歌舞伎の所作を始めた頃から芸者の人数は徐々に増えていき、幇間の人数が40人ほどだった時でも、芸者の人数は3倍いたとされています。
女衒(ぜげん)
女衒は、生活に貧窮した貧しい農家の親から娘を買い、遊郭に売る人買い稼業のことです。
売られてきた少女を遊郭に斡旋する仲介業者であり、「斡旋屋」「口入れ屋」「玉出し屋」などとも呼ばれていました。また、貧しい山間部で親と交渉し、甘い言葉で小さな娘を買ってくることもありました。
江戸時代に人身売買は禁止されていましたが、父親や兄、叔父や夫が連れてくれば女性を売り渡すことができたのだそうです。表向きは年季と給金を取り決めた年季方向なので、証文を取り交わすことが必要でした。
女衒と遊女屋と契約関係にあり、連れてこられた女子の体が、将来どれほど稼げるようになるかいくらで売れるか品定めをし価格を決め、契約書を交わします。
女衒は娘の体を瞬時に「極上」「上玉」「並玉」「下玉」と見極める目を持ち、必要な証文を作成することができるその道の専門家でしたので、客が身売りに来た場合でも妓楼に呼ばれました。
吉原の苦界に身を沈めたのは、貧しい農村の娘だけに留まらず、商売が立ちいかなくなった商家や貧しい武家でも同様でした。
女衒という職種は江戸時代よりも前からあり、明治、大正、昭和になってもなくなることはありませんでした。
蔦屋重三郎が手がけた吉原のガイドブック「細見嗚呼御江戸序」には、福内鬼外(ふくちきがい)こと平賀源内の文章で、女衒が売られて来た娘を品定めする様が描写されています。
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吉原で働く人々
江戸時代中期の日本には、吉原遊廓という異世界で「遊女三千人」と言われる遊女のほかに、働く人々はまだまだたくさんいました。時代背景を細かく追っていくとまたいろいろな面が見えてきそうです。
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